◆判決本文
本判決は、「刊行物に記載された発明」(特許法29条1項3号)といえるためには,刊行物の記載及び本件特許の出願時(以下「本件出願時」という。)の技術常識に基づいて,当業者がその物を作れることが必要であるという一般論を判示した上で、引用例1の記載及び本件出願時の技術常識を考慮しても,引用発明1のデバイスを当業者が作れるように記載されていないとして引用例1の引用例適格を否定し、特許取消決定を取り消した。
引用例適格については、引用「発明」である必要があるという文脈で従来から問題とされてきたものであり、本判決も従来の裁判例と整合する。
ここで本判決を取り上げたのは、平成30年4月のピリミジン大合議判決で主・副引用発明が「発明」である必要があることが明確に確認されたこと、また、同時期の先使用権に関する裁判例(医薬事件)で(傍論であるが)先使用物が偶々対象特許発明の数値範囲に入っていただけでは先使用権は認められないとして、先使用「発明」であったかどうかが重視されたという最近の裁判例の潮流とも極めて良く整合すると思われるためである。
次は、公知物が偶々対象特許発明の数値範囲に入っていただけでは公然実施「発明」は認められないという判決も有り得る。本判決とパラレルに考えれば、公知物を作った者が当該公知物を作れたとしても、「当業者(発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者)」が当該公知物を作れたか否かという争点が想定される。そうすると、作り方をノウハウとして秘匿している場合に、後から当該物を作ることに成功した者が特許を取得できることが有り得ることになる。例えば、 数値限定された「物」を製造できたこと自体に技術的意義を認めて新規性・進歩性〇とした裁判例としては、平成19年(行ケ)第10430号、平成14年(行ケ)第418号等がある。
このように、主・副引用発明が「発明」であることを厳格に要求すると、従来技術と同じ物であっても新規性・進歩性が認められる場合があるから、従来から実施している者の保護をどのように考えるかが問題となろう。(筆者は、「自由技術の抗弁」復権を考えている。)
1.特許請求の範囲(【請求項1】)
「【請求項1】… (F-1) 該検体であって,濃縮処理物を除く該検体中に(F-2)マイコプラズマ・ニューモニエ抗原が存在する場合に,該マイコプラズマ・ニューモニエ抗原と該標識物質で標識された該第二のモノクローナル抗体とを標識担持部材において結合させて,複合体を形成させる手段…を有する,(H) マイコプラズマ・ニューモニエ感染検出用のイムノクロマトグラフィー試験デバイス。」
2.本判決の概要(進歩性~引用例適格)
『ウ 相違点
(F-1′)の検体及び(H’)の「イムノクロマトグラフィー試験デバイス」が,引用発明1では患者サンプルに「濃縮処理物」を含むか不明であり,引用例1に実施例がなく,ラテラルフローデバイスが,濃縮処理をしない患者サンプルについても「マイコプラズマ・ニューモニエ感染検出用」として使用できるか不明であるのに対して,本件特許発明1は,「濃縮処理物を除く」検体であっても,イムノクロマトグラフィー試験デバイスが「マイコプラズマ・ニューモニエ感染検出用」である点。』
『特許法29条1項3号の「刊行物に記載された発明」は,当業者が,出願時の技術水準に基づいて本願発明(本件特許発明)を容易に発明することができたかどうかを判断する基礎となるべきものであるから,当該刊行物の記載から抽出し得る具体的な技術的思想でなければならない。また,本件特許発明は物の発明であるから,進歩性を検討するに当たって,刊行物に記載された物の発明との対比を行うことになるが,ここで,刊行物に物の発明が記載されているといえるためには,刊行物の記載及び本件特許の出願時(以下「本件出願時」という。)の技術常識に基づいて,当業者がその物を作れることが必要である。
かかる観点から本件について検討すると,引用例1の記載及び本件出願時の技術常識を考慮しても,引用発明1のデバイスを当業者が作れるように記載されているとはいえない。理由は以下のとおりである。
…たとえ様々なモノクローナル抗体を得る技術自体は周知技術であるとしても,本件取消決定が認定した引用発明1のラテラルフローデバイスは,引用例1の記載及び本件出願時の技術常識から,直ちに作ることができるものとはいえない。したがって,引用例1に引用発明が記載されている(あるいは,記載されているに等しい)ということはできない。
…引用例1の実施例7の記載は,患者サンプル(臨床検体)からのマイコプラズマ・ニューモニエの検出が可能であったことを示すものとはいえない。かかる観点からも,引用例1に引用発明が記載されている(あるいは,記載されているに等しい)ということはできない。』
3.関連裁判例の紹介
3-1.新規性・進歩性判断における、引用例適格についての裁判例
①東京高判平成8年(行ケ)第136号「新規ペプチド」事件は、引用文献の適格性を否定して、拒絶審決を取り消した。
(判旨抜粋)『一般的に化合物が引用例に記載されていると認められるには、その化合物が現実に提供されることが必要であり、単に化学構造式や製造法を示して理論上の製造可能性を明らかにしただけでは足りず、化合物が実際に確認できるものであることが必要であるところ、引用例には、…であるモチリン誘導体(本願モチリン)の製造法についての開示がなされておらず、また、融点の表示その他これが現実に製造されたことを示す根拠も記載されていない。』
②知財高判平成21年(行ケ)第10180号「4-アミノ-1-ヒドロキシブチリデン-1,1-ビスホスホン酸」事件は、”引用発明の適格性”として,実施可能であることが必要であるとして、学会発表要旨集の一行記載の引用発明適格性を否定して、無効審決を取り消した。(H16(行ケ)259、H24(行ケ)10134同旨)
(判旨抜粋)『本件…3水和物が新規の化学物質であること,甲7文献には,本件3水和物と同等の有機化合物の化学式が記載されているものの,その製造方法について記載も示唆もされていないこと,以上の点については…審決も認めるところである。
そこで,このような場合,甲7文献が,特許法29条2項適用の前提となる29条1項3号記載の「刊行物」に該当するかどうかがまず問題となる。ところで,特許法29条1項は,同項3号の「特許出願前に‥‥頒布された刊行物に記載された発明」については特許を受けることができないと規定するものであるところ,上記「刊行物」に「物の発明」が記載されているというためには,同刊行物に当該物の発明の構成が開示されていることを要することはいうまでもないが,発明が技術的思想の創作であること(同法2条1項参照)にかんがみれば,当該刊行物に接した当業者が,思考や試行錯誤等の創作能力を発揮するまでもなく,特許出願時の技術常識に基づいてその技術的思想を実施し得る程度に,当該発明の技術的思想が開示されていることを要するものというべきである。特に,当該物が,新規の化学物質である場合には,新規の化学物質は製造方法その他の入手方法を見出すことが困難であることが少なくないから,刊行物にその技術的思想が開示されているというためには,一般に,当該物質の構成が開示されていることに止まらず,その製造方法を理解し得る程度の記載があることを要するというべきである。そして,刊行物に製造方法を理解し得る程度の記載がない場合には,当該刊行物に接した当業者が,思考や試行錯誤等の創作能力を発揮するまでもなく,特許出願時の技術常識に基づいてその製造方法その他の入手方法を見いだすことができることが必要である…。
本件については,…甲7文献には製造方法を理解し得る程度の記載があるとはいえないから,上記…の判断基準に従い,甲7文献が特許法29条1項3号の「刊行物」に該当するというためには,甲7文献に接した当業者が,思考や試行錯誤等の創作能力を発揮するまでもなく,特許出願時の技術常識に基づいて本件3水和物の製造方法その他の入手方法を見いだすことができることが必要である…。…本件においては,本件出願当時,そのような技術常識が存在したと認めることはできない…。』
③知財高判平成22年(行ケ)第10029号「…Bリンパ芽腫細胞系」事件は、引用文献に記載された細胞系が入手不可能であったことから、引用例適格を否定した。
(判旨抜粋)『本願優先日前,A 博士(及び共同研究者)は,L612細胞系につき,第三者から分譲を要求されても,同要求に応じる意思はなかったものと認められ,その結果,L612細胞系は,第三者にとって入手可能ではなかったことになり,「引用例1,2に記載されるL612細胞系は,第三者から分譲を請求された場合には,分譲され得る状態にあったものと推定することができる」とした審決の認定判断は誤りであって,同誤りが審決の結論に影響を及ぼすおそれがある…。』
④≪参考≫知財高判平成24年(行ケ)第10296号「遺体の処置装置」事件は、引用文献の他の記載と整合しない記載が、引用文献に開示されていないと判断した。
(判旨抜粋)『甲32公報では,…段落【0017】におけるスポンジの小片4に関する記載は,第1の実施形態の処置用具に関するその他の記載と整合せず,この段落にだけ浮き上がって触れられているものであり,しかも,第2の実施形態の処置用具において明示された「スポンジの小片4」の使用方法とも整合しないことになる。当業者が,甲32公報の記載に接し,その記載を整合的に理解しようとすれば,段落【0017】におけるスポンジの小片4の記載は,明細書の編集上のミスと認めざるを得ない。
すなわち,第1の実施形態の処置用具は,スポンジの小片4を有していないと理解するのが自然である。少なくとも,このような他の記載と整合しない断片的な記載から,「可撓性チューブの一端開口部に(防湿用キャップ5に加えて)スポンジの小片4を有する第1の実施形態の処置用具であって,一端開口部を遺体の孔部に挿入した後にスポンジの小片4を押し出す」という構成が甲32公報に開示されていると認めることはできない』
3-2.近時の重要裁判例(ピリミジン大合議判決、医薬事件)
①知財高判(大合議)平成28年(行ケ)第10182号「ピリミジン誘導体」事件は、主引例のみならず、副引例も「発明」(=具体的な技術的思想)である必要があるという一般論を述べた。
(判旨抜粋)『…進歩性の判断に際し,本願発明と対比すべき同条1項各号所定の発明(以下「主引用発明」といい,後記「副引用発明」と併せて「引用発明」という。)は,通常,本願発明と技術分野が関連し,当該技術分野における当業者が検討対象とする範囲内のものから選択されるところ,同条1項3号の「刊行物に記載された発明」については,当業者が,出願時の技術水準に基づいて本願発明を容易に発明をすることができたかどうかを判断する基礎となるべきものであるから,当該刊行物の記載から抽出し得る具体的な技術的思想でなければならない。… この理は,本願発明と主引用発明との間の相違点に対応する他の同条1 項3号所定の「刊行物に記載された発明」(以下「副引用発明」という。)があり,主引用発明に副引用発明を適用することにより本願発明を容易に発明をすることができたかどうかを判断する場合において,刊行物から副引用発明を認定するときも,同様である。」
②知財高判平成29年(ネ)第10090号「医薬」事件(東和薬品v.興和)<高部裁判長>は、先使用権成立には先使用物に具現された技術的思想が本件発明と同じ内容の発明でなければならないとしたうえで、(傍論であるが)先使用医薬が偶々該発明の数値範囲に入っていたとしても先使用発明×とした。
(判旨抜粋)『控訴人は,本件出願日前に本件2mg錠剤のサンプル薬及び本件4mg錠剤のサンプル薬を製造するに当たり,サンプル薬の水分含量を1.5~2.9質量%の範囲内又はこれに包含される範囲内となるように管理していたとも,1.5~2.9質量%の範囲内における一定の数値となるように管理していたとも認めることはできない。…以上のとおり,本件発明2は,ピタバスタチン又はその塩の固形製剤の水分含量を1.5~2.9質量%の範囲内にするという技術的思想を有するものであるのに対し,サンプル薬においては,錠剤の水分含量を1.5~2.9質量%の範囲内又はこれに包含される範囲内に収めるという技術的思想はなく,また,錠剤の水分含量を1.5~2.9質量%の範囲内における一定の数値とする技術的思想も存在しない。そうすると,サンプル薬に具現された技術的思想が,本件発明2と同じ内容の発明であるということはできない。』
3-3.従来技術と(一部)重複しても新規性・進歩性が認められた裁判例
①知財高判平成20年(行ケ)第10115号「遠隔的に監督される安全な試験の運営システム」は、引用例が本願発明にたまたま含まれても一致点でないと判断した。
(判旨抜粋)『本願補正発明の「試験の監督データ」は,試験の有効・無効の判断に供されるデータと試験の有効・無効を判断するために必要とされるデータとを含むものであって,試験会場において受験者が不正行為を行わないよう監督(狭義の試験監督)するためのデータである。他方,引用発明の「テスト状況記録データ」である異常事態報告記録に係るデータは,テストに影響を与え得るハードウェア又はソフトウェア上の問題及び停電等のテストセンターの状態の追跡を可能にするためのデータであるから,本願補正発明の「試験の監督データ」の一部にたまたま含まれる関係であるが,狭義の試験監督に関連するデータではない。』
②知財高判平成22年(行ケ)第10322号「Rhoキナーゼ阻害剤とβ遮断薬からなる緑内障治療剤」事件は、引用発明がたまたまある効果を有しても、そのことをもって、治療が記載されていることにならないと判断した。
(判旨抜粋)『引用例1には,緑内障治療にカルシウムアンタゴニスト活性を有する薬剤と眼圧を下降させる薬剤の併用が開示されているのみで,Rhoキナーゼ阻害活性と緑内障治療についての開示は一切存在しないことに照らすと,引用例1の記載に接した当業者は,たとえ,そこに記載された具体例の1つであるHA1077が,たまたまRhoキナーゼ阻害活性をも有するとしても,そのことをもって,引用例1に,Rhoキナーゼ阻害活性を有する薬剤と眼圧を下降させる薬剤を併用する緑内障治療が記載されているとまでは認識することができない…。』
③知財高判平成24年(行ケ)第10241号「医療用ゴム栓組成物」事件は、本願発明の組成物の構造が引用発明と一部重複していても、技術的思想が異なるとして、一致点でないとした。
(判旨抜粋)『審決が認定した引用発明における「重量平均分子量が20万~40万であるスチレン・エチレン・ブチレン・スチレンブロック共重合体」は,上記認定の構成「重量平均分子量で15万以上のスチレン・共役ジェンブロック共重合体の水素添加物であって前記共役ジェンがイソプレン及びブタジエンから選択される1種以上であるベースポリマー」に包含されるものではあるが,前記のとおり,刊行物1に記載された発明が十分な液漏れ性能等の確保といった目的を達成するためには,止栓本体の成形時に針刺部分を針の針刺方向に撓ませて成形されたものであることが必要と解されるのに対し,補正発明では針刺部分を撓ませることは前提とされていないという点で技術思想が異なるものであり,このような差違を考慮しないまま上記認定の構成に包含されるからといって,その中の特定の構成を引用発明として認定するのは相当ではない。原告主張の取消事由もこの趣旨をいうものと理解することができる。…
補正発明は…刊行物1に記載の上記組成物におけるベースポリマーの種類及び分子量,軟化剤及びポリプロピレンの配合量,並びに組成物の硬さを特定の範囲に限定することにより,針刺部分を針の針刺方向に撓ませて針刺し止栓を成形するという手法を用いなくとも,液漏れのない医療用ゴム栓を得ることができる効果を見出したものということができる。そして,針刺部分を針の針刺方向に撓ませて針刺し止栓を成形することを液漏れのない針刺し止栓を得るために必要とする刊行物1記載の針刺部分組成物のベースポリマーの種類及び分子量,パラフィン系オイル及びポリオレフィンの配合量,並びに硬さの範囲の中から,針刺部分を針の針刺方向に撓ませることが不要な特定の組成を見出すという発想は,刊行物1の記載から見出すことができず,刊行物1に記載の事項と補正発明とでは前提とする技術的思想が異なるものである。すなわち,補正発明の構成は,前記の技術的課題からの発想に伴うものであり,そのような発想である技術的思想が上記のとおり刊行物1には記載も示唆もない以上,そのような発想と離れた組成物が刊行物1に記載されているとしても,そこに,補正発明の構成が容易想到であると認めるまでの発明としての構成が記載されているということはできない。』
⇒引用例と数値が一部重複していても新規性・進歩性が認められた他の裁判例としては、例えば、以下のようなものがある。
●平成12 年(行ケ)第446 号
⇒刊行物に開示されたという数値範囲(20 ~100 μm)のうち,本願発明と重複する範囲(20~ 30 μm)の厚さにより必要な特性(ヒートシール強度)を得られるのは,本願発明と異なる製法(ドライラミネート法)による場合のみであり,本願発明の製法(押し出し法)による場合は少なくとも本願発明の数値範囲を超える厚さ(30 μm以上)が必要であることから,刊行物には,本願発明の数値範囲(13 ~ 30 μm)が実質的に開示されていない。
● 平成6 年(行ケ)第267 号
⇒ 発明と引用例との間で,特定の数値限定に着目すると数値範囲が一部重複する場合でも,両者は適用される場面が相違するから,両者は技術的意義が異なる。
● 平成6 年(行ケ)第30 号
⇒発明と引用例との間で,特定の数値限定に着目すると数値範囲が一部重複する場合でも,刊行物に,本願発明の作用効果を意図して特定の数値に設定したことは開示も示唆も無い。
④≪参考≫知財高判平成17年(行ケ)第10445号「非水電解液二次電池」事件は、引用例の認定につき一行記載であるから記載無しとした。
(判旨抜粋)『原告が引用する上記記載は,発明の詳細な説明中の「問題点を解決するための手段及び作用」の項の末尾部分の記載であり,「更に要すれば」,「電池の構造としては,特に限定されるものでないが」,「一例として挙げられる」との記載から明らかなように,特許請求の範囲に記載された二次電池の発明を実施する場合に適用可能な電池の構造ないし形態を単に例示したにとどまるものであって,具体的な実施態様を開示したものとは認められない。換言すると,甲1には,特許請求の範囲に記載された複合酸化物等を活物質とする円筒状電池の開示はあるということはできるとしても,そのような円筒状電池における電極の具体的な形態(短冊状ではなく帯状のものか,それ以外の形態があり得るのかなど)や,活物質の具体的な形成態様(両面に形成されているか,正極及び負極のそれぞれの膜厚がどのような範囲にあり,膜厚の比や和がどのような関係にあるかなど)を示唆する記載は一切ないのである。また,本件の証拠を総合しても,甲1の特許請求の範囲に記載された複合酸化物等を活物質とする円筒状電池において,電極を帯状のものとすること,活物質を両面に塗布すること,膜厚を一定範囲のものとすることが本件特許出願時における技術常識であったとは認められない。そうすると,技術常識を参酌したとしても,原告が本件発明と甲1発明との一致点であると認定されるべきであるとする構成…(帯状の正極集電体及び負極集電体が渦巻型の巻回体を構成するもの)を備えた二次電池が甲1に記載されているとみることはできない。』
特許法29条1項3号の「刊行物に記載された発明」は,当業者が,出願時の技術水準に基づいて本願発明(本件特許発明)を容易に発明することができたかどうかを判断する基礎となるべきものであるから,当該刊行物の記載から抽出し得る具体的な技術的思想でなければならない。また,本件特許発明は物の発明であるから,進歩性を検討するに当たって,刊行物に記載された物の発明との対比を行うことになるが,ここで,刊行物に物の発明が記載されているといえるためには,刊行物の記載及び本件特許の出願時(以下「本件出願時」という。)の技術常識に基づいて,当業者がその物を作れることが必要である。
かかる観点から本件について検討すると,引用例1の記載及び本件出願時の技術常識を考慮しても,引用発明1のデバイスを当業者が作れるように記載されているとはいえない。理由は以下のとおりである。
ア 本件取消決定は,引用発明1をP1タンパク質に対するモノクローナル抗体を用いて,患者サンプル中のマイコプラズマ・ニューモニエの検出を行うラテラルフローデバイスに関する発明として認定しているところ,ラテラルフローデバイスは,イムノクロマトグラフィー法に基づく検出デバイスであり,イムノクロマトグラフィー法による抗原検出においては,抗体と抗原がサンドイッチ複合体を形成する必要があると認められ(甲8~10,弁論の全趣旨),また,モノクローナル抗体の場合には,抗原を挟み込む二つの抗体が同じものでは不都合であり,少なくとも,二つの異なる抗体を用いることが必要であると認められる(この点は特に当事者に争いがない。)。
その一方で,異なる二つのモノクローナル抗体でありさえすれば,抗体と抗原がサンドイッチ複合体を形成するとの本件出願時の技術常識も見当たらず,また,サンドイッチ複合体を形成しさえすれば,必ず患者サンプル中のマイコプラズマ・ニューモニエを検出できると直ちにいうこともできない。
たとえば,引用例2の199頁図1には,捕獲抗体として特異性の異なる二つのポリクローナル抗体を用い,ペルオキシダーゼ標識モノクローナル抗体(検出抗体)を変えてマイコプラズマ・ニューモニエ抗原の捕獲アッセイを行った試験の結果を表す二つのグラフが示されている。捕獲抗体が抗Mp-IgG(右)の場合,試験されたペルオキシダーゼ標識抗体では,いずれも,標識抗体100ngで450nmにおける吸光度が2を超え,標識抗体1μgにおいて,450nmにおける吸光度が3を超えている。これに対し,捕獲抗体が抗P1-IgG(左)の場合には,標識抗体がP1.25又はM74では,1μgで450nmにおける吸光度が3を超えていても,標識抗体がM57では,1μgでも吸光度が1に満たない。
このように,同じ捕獲抗体を用いた場合であっても,検出抗体によって検出感度が異なり,サンドイッチ複合体の形成に基づく検出は,抗体の組合せによって,検出感度が大きく異なる場合があると理解されるから,モノクローナル抗体を用いてサンドイッチ複合体の形成に基づく検出を行う場合には,適切な抗体を組み合わせて用いる必要があると認められる。
本件取消決定が認定した引用発明1のラテラルフローデバイスも,サンドイッチ複合体の形成に基づく抗原の検出デバイスであるから,P1タンパク質に対するモノクローナル抗体を用いて,患者サンプル中のマイコプラズマ・ニューモニエを検出するラテラルフローデバイスを作るためには,第1のモノクローナル抗体と第2のモノクローナル抗体として適切な組合せのモノクローナル抗体を用いる必要があると認められる。
そこで,第1のモノクローナル抗体と第2のモノクローナル抗体の組合せに関して引用例1の記載を検討するに,引用例1には,ラテラルフローデバイスに用いる二つの抗体について,具体的なモノクローナル抗体の組合せを示す記載は見当たらない。また,本件出願時において,ラテラルフローデバイス等のサンドイッチ複合体を形成できる具体的なモノクローナル抗体の組合せが周知であったことを示す証拠もない(引用例2の199頁図1の左側のグラフに示されている実験において,P1.25とM74は,それぞれ,抗P1-IgG又は抗Mp-IgGを捕獲抗体とした場合に,抗原を検出可能としていることから,当該捕獲抗体と抗原とからなるサンドイッチ複合体を形成するものと考えられるが,引用例2に記載されていることをもって,直ちにこれらの抗体が周知であるということはできないし,そもそも,当該捕獲抗体はいずれもポリクローナル抗体であるから,異なる二つのモノクローナル抗体の組合せが明らかにされているとはいえない。ほかにサンドイッチ複合体を形成できる具体的なモノクローナル抗体の組合せを明らかにする証拠はない。)。
次に,引用例1に記載された具体的なイムノクロマトグラフィー(ICT)デバイスについての唯一の実施例である実施例4は,抗rCARDS抗体を用いたもので,P1タンパク質に対する抗体を用いたものではない。
また,引用例1におけるP1タンパク質に対する抗体に関する具体的な記載は,実施例3のみであるが,実施例3における抗原の検出は,サンドイッチ複合体の形成とは異なる,市販の二次抗体である抗ウサギ又は抗マウス抗体を用いた方法によるものである。したがって,これらの実施例の記載から,サンドイッチ複合体を形成可能なモノクローナル抗体を知ることはできない。
さらに,引用例1には,P1タンパク質に対するモノクローナル抗体として,マウスのモノクローナル抗真正P1タンパク質抗体H136E7(【0012】)とrP1に対するモノクローナル抗体(【0096】)に関する記載があるが,P1タンパク質に対する具体的なモノクローナルは,H136E7が記載されているにとどまり,rP1に対するモノクローナル抗体については,その当該モノクローナル抗体を生産する細胞株も,モノクローナル抗体のアミノ酸配列等の情報も,H136E7とのサンドイッチ複合体の形成の有無に関する手掛かりとなる情報も記載されていない。このような引用例1の記載に基づいて,ラテラルフローデバイスを作るためには,モノクローナル抗体として一つはH136E7を用いるとしても,もう一つ,H136E7とサンドイッチ複合体を形成可能な別のモノクローナル抗体を用いる必要があるが,引用例1には,そのようなモノクローナル抗体の構造について手掛かりとなる記載がなく,何らかの方法でモノクローナル抗体を入手し,それらのモノクローナル抗体が,H136E7とサンドイッチ複合体を形成可能であるかを調べ,試行錯誤によって,H136E7と組み合わせて患者サンプル中のマイコプラズマ・ニューモニエを検出するラテラルフローデバイスを構成できるモノクローナル抗体を見つけ出す必要がある。
以上を踏まえれば,たとえ様々なモノクローナル抗体を得る技術自体は周知技術であるとしても,本件取消決定が認定した引用発明1のラテラルフローデバイスは,引用例1の記載及び本件出願時の技術常識から,直ちに作ることができるものとはいえない。
したがって,引用例1に引用発明が記載されている(あるいは,記載されているに等しい)ということはできない。
イ 患者サンプル(臨床検体)からの検出という点についても検討する。
患者サンプルからの患者サンプル中のマイコプラズマ・ニューモニエの検出については,引用例1の実施例7に記載があるが,この方法は,CARDSを検出抗原とした抗原捕捉EIAに基づくものであって,P1タンパク質をサンドイッチ複合体の形成に基づいて検出する引用発明1のデバイスとは,抗原も検出手法も異なる。それだけではなく,以下のように,検体から感染が検出されているかどうかも定かではない。
すなわち,引用例1の実施例7では,患者からの検体で試験したところ,M・ニューモニエ感染の9検体内の1検体と,非M・ニューモニエ感染の18検体が,それぞれバックグラウンドを超えるEIAシグナルを示したとの記載がある。ここで,引用例1には,抗原捕捉EIAとのみ記載されており,具体的な検出系については記載されていないが,仮に,通常のサンドイッチ複合体の形成に基づく検出系であるとすると,抗原の存在によりシグナルが増大するので,実施例7の試験結果は,感染・非感染と,シグナルの増大とが正しく対応していないことになる。
この点に関し,被告は,競合法であれば,サンプル中の抗原が多くなるとシグナルが小さくなる検出法であるから,非M・ニューモニエ感染の18検体では抗原が存在しないためシグナルが大きくなり,M・ニューモニエ感染の9検体では抗原が多いためシグナルが小さくなることが予測されるところ,実施例7の記載は,これとほぼ一致しており,したがって,実施例7は,感染・非感染を検出できたことを示すものとして解釈すべきである旨を主張している。
しかし,仮に,実施例7の試験が競合法によるものであるとすると,競合法は,標識抗体を用いるサンドイッチ法などの標識抗体を用いる検出方法とは異なり,標識抗原を用いる必要があるが,引用例1には,標識抗原を製造したことや,標識抗原を入手したことについての記載が全くない。
そして,そもそも,引用例1には,実施例7がどのような検出系により検出を行ったのかについても記載されていない。したがって,試験結果との整合性のみから,競合法に基づくと断定することはできない。
以上の点からみて,引用例1の実施例7の記載は,患者サンプル(臨床検体)からのマイコプラズマ・ニューモニエの検出が可能であったことを示すものとはいえない。
かかる観点からも,引用例1に引用発明が記載されている(あるいは,記載されているに等しい)ということはできない。
(3) 小括
以上によれば,本件取消決定は,進歩性についての判断を行うに際し,引用発明の認定を誤った結果,第1の抗体及び第2の抗体としてモノクローナル抗体を用いる点と,患者サンプル中のマイコプラズマ・ニューモニエの検出を行う点についての相違点を看過し,なおかつ,これらの相違点に関する容易想到性の判断を全く行わないままに,進歩性欠如の結論を導いて(これを理由に)本件特許を取り消したものであるから,当該引用発明の認定の誤り及び相違点の看過は本件取消決定の結論に影響するものである。
したがって,原告が主張する取消事由1は上記の限度で理由があるというべきであり,その余の取消事由につき検討するまでもなく,本件取消決定は取り消されるべきである。
以 上
原告(特許権者):アルフレッサファーマ株式会社
被告:特許庁長官
(Keywords)アルフレッサ、マイコプラズマ、ニューモニエ、クロマトグラフィー、製造可能、引用例適格、引用例、記載された発明、引用発明、自由技術
執筆:高石秀樹(弁護士・弁理士)(特許ニュース平成31年5月20日の原稿を追記・修正したものです。)
監修:吉田和彦(弁護士・弁理士)
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